てんしょうじ
岐阜県関市下之保字戸丁1520
燈外宗晋によって德隣庵の名で創建された。燈外宗晋は丹羽氏の出で、蜂屋瑞林寺を開いた仁済宗恕の3世法孫・雲叔和尚の弟子であった。そのため德隣庵は瑞林寺の末寺となった。 織田信長による近隣地域への侵攻..
燈外宗晋によって德隣庵の名で創建された。燈外宗晋は丹羽氏の出で、蜂屋瑞林寺を開いた仁済宗恕の3世法孫・雲叔和尚の弟子であった。そのため德隣庵は瑞林寺の末寺となった。 織田信長による近隣地域への侵攻の際、各寺院を侵攻の拠点とすべく豊臣秀吉らが遣わされた。德隣庵では燈外和尚が快く協力したことから豊臣秀吉やその家臣・加藤清正らの帰依を受けた。秀吉・清正らの援助を受け、天正元年(1573年)に寺となる資格を得た。このとき元の庵号と元号に因み、德隣山天正寺と名付けられた。 やがて豊臣秀吉による朝鮮出兵が計画されると、秀吉は名護屋城に滞在する兵らの雑談相手として燈外和尚を呼び寄せた。和尚は陸路で大坂まで向かうと船に乗って名護屋へと向かったが、その途上で病にかかって船上で没した。 下呂市金山町菅田桐洞にある林泉寺はもともと天正寺の末寺であったが、貞享5年(1688年)に美濃加茂市蜂屋の瑞林寺末寺(現在は妙心寺直末)となり同格となった。
下之保(しものほ)にある臨済宗妙心寺派の寺院。
德隣山(とくりんざん)
臨済宗
臨済宗妙心寺派
瑞林寺(美濃加茂)末寺
聖観世音菩薩
燈外宗晋(俗姓・丹羽)
德隣山天正禅寺
無料
有り(境内西側、南側)
有り(境内南側)