かごもりじょうあと
愛媛県北宇和郡松野町富岡
続日本100名城 #179 城の築城の年代は不明で、主に天文後期から永禄期、天正期(1500年代後半頃)にかけて機能していました。当地域は当時、伊予(現愛媛県)と土佐(現高知県)の国境地帯にあって..
続日本100名城 #179 城の築城の年代は不明で、主に天文後期から永禄期、天正期(1500年代後半頃)にかけて機能していました。当地域は当時、伊予(現愛媛県)と土佐(現高知県)の国境地帯にあって、黒土郷河原渕領(くろつちごうかわらぶちりょう)と呼ばれていました。永禄期の城主としては、河原渕教忠(かわらぶちのりただ)の名が残っていますが、この城主は、土佐一条氏一門から養子として入っています。 長宗我部氏の四国統一への動き、また天正13年(1585年)の秀吉による四国平定を経て、当地域を含む宇和郡は、戸田氏、藤堂氏、富田氏へと支配が移っていきます。特に藤堂高虎の時代には、河後森城の天守が板島城(現在の宇和島城)に移築されたという伝承が残っています。 慶長19年(1614年)、伊達秀宗(だてひでむね)が、宇和島藩を創立すると、付家老の桑折(こおり)氏が居城したといわれ、その後詳細は不明ながら、元和元年(1615年)の一国一城令の発布によって廃城になったと考えられます。
松山自動車道三間ICから松野方面へ約15km、城の南側の風呂ヶ谷駐車場から登城(駐車場から約15分) JR予土線松丸駅下車、城の北側の永昌寺口から登城(約30分)
自由(ただし街灯はない)
無料
有り(風呂ヶ谷駐車場(乗用車約10台・大型バスも駐車可能))
なし