うりじょう
愛知県新城市中宇利字仁田36
中世中頃の形式を伝える山城の跡と推定され、三河から遠江へ通ずる要路を扼する標高160mの丘陵にある。本丸、姫御殿、オンヤマ平、穀倉、濠、土塁、井戸等の跡がみられ、付近に南馬場、北馬場、助六、寄合クボ..
中世中頃の形式を伝える山城の跡と推定され、三河から遠江へ通ずる要路を扼する標高160mの丘陵にある。本丸、姫御殿、オンヤマ平、穀倉、濠、土塁、井戸等の跡がみられ、付近に南馬場、北馬場、助六、寄合クボなどの地名も残っている。中世には地方豪族の拠点となり、戦国時代には松平、今川両氏による争奪が行われた。享禄2年(1529)、翌3年(1530)の松平清康(家康の祖父)と宇利城主熊谷直利(今川方)の攻防は著名で、天然の要害としての宇利城は落城に時間を要したという。