おうふくじ
神奈川県中郡大磯町寺坂639
当山は奈良時代、行基菩薩が関東下向のみぎり開かれたと伝えられるほど由緒が古く、もと坂本村、高鳥山円明院王福寺といいました。その昔はここより五百米ほど行った山の上に、本堂その他のお堂だありました。東は..
当山は奈良時代、行基菩薩が関東下向のみぎり開かれたと伝えられるほど由緒が古く、もと坂本村、高鳥山円明院王福寺といいました。その昔はここより五百米ほど行った山の上に、本堂その他のお堂だありました。東は湘南平、平塚市街を一望におさめ、南は、相模灘、伊豆大島、西に箱根、甘木の連峰を望む景観の地であります。その山麓に円鏡寺、延命院、大高寺、宝持坊、堂観坊等の末寺がならび荘厳さを誇っていたと思われます。 鎌倉時代の初め建久三年(1192年)八月九日には、源頼朝の室政子の安産祈願に際して、相模の国の寺社二十七に神馬を奉納していますが、そのなかに「王福寺 坂本」【吾妻鏡】とあり当時の主要な寺院の一つに数えられ、隆盛を極めていたことが伺われます。また、小磯一の鳥居(大磯町西小磯)より、谷戸観音をへて山越えに、梶原平三景時が頼朝の代参をしたとかいわれています。正、五、九月には天下泰平、国家安穏の祈願をいたし、よって祈祷料として七十貫文の寺領を賜ったといわれています。。その後、「坂本村」を寺に上るのに急な坂があるため「幸坂村」と改めたといわれています。現に、旧本堂地に登る坂の中ほどに「仁王平」と言って仁王門の跡地があります。下って永正年中(1505年)に至り、兵火にあい伽藍諸堂等焼失しましたので、大永年間(1524年)栄範律師の一大尽力により、本堂を現在地に建立しました。よって栄範律師を中興の祖として現在に至っています。 次に慶長、元和の頃には、その公的な支えを失い、更に加えて寛永七年(1630年)再びこの地において火災にあいましたが、平安時代より護持されてきました本尊様が難を逃れましたことは不幸中の幸いでした。よって、檀信徒大いに協力し、五ヶ寺の末寺を合併し、山号を大高山と改め、一山一寺といたしました。
大高山
真言宗
東寺派
大永年間(1524年)
栄範律師
相模二十一ヶ所薬師霊場 第七番札所
本尊薬師如来坐像(国重要文化財)
東海道線平塚駅 バス上寺坂下車 東海道線二宮駅 バス王福寺下車
有り