文治二年(1186年)島津家初代忠久が、薩摩・大隅・日向の地頭に任じられると、家臣の本田貞親を派遣し、この地方の動向を探らせた後、建久七年(1196年)この地に築城した。以後、5代貞久まで領国支配の拠点となった。
その後、貞久は所領を2子に分与し、惣領の師久に薩摩国の守護職(総州家)、弟の氏久に大隅国の守護職(奥州家)を与えた。
師久は川内の碇山城に新たな守護所を設け、旧守護所の木牟礼城には貞久が残ったと云われている。
貞久の時代には、南朝と北朝の争いが木牟礼城と尾崎城を舞台に行われた。
南北朝の動乱が収まると、総州家と奥州家の勢力争いが起き、総州家が奥州家に滅ぼされると、木牟礼城もその存在価値を失い廃城となった。