創建は不詳であるが、三大実録に、貞観二年三月二十日薩摩国従五位志奈毛神に授五位上とあり、毛は尾の間違いで当社の事であるという。三国名勝図会に、志奈尾大明神は宮里立山にあって、祭神五座神名不詳なりとある。また正徳六年の上梁文に、初め現鎮座地の西方十四、五町ほどの小山の垂迹感応の地に鎮座されていたが、累々洪水の難があったため、宝永四年十二月小高い山の中腹の今の地に遷座されたとある。新田神が姉神で、志奈尾神が妹神ともいわれる。
旧藩主島津家崇敬の神社にして、奉納された太鼓、定紋入幕は今尚存する。また農業神として農家の崇敬殊に厚く、明治六年五月県社に列せられ、同四十年一月神饌幣帛供進神社に指定された。昔の春祭には、花見を兼ね、相撲や踊りがあり、市もたって賑った。
明治四十三年三月村社枚聞神社、同年七月無格社南方神社、無格社若宮神社を合祀。社殿狭隘のため、氏子崇敬者の篤志により、昭和四年五月社殿を改築した。
尚、地名の由来は、瓊々杵尊の宮居地或いは屯倉があったことによるとか、対岸宮内の八幡宮が往古当地にあったこと等によるという。