しゅうりんじ
滋賀県高島市朽木野尻244
享禄元年(1528年)、12代将軍・足利義晴が幕府内勢力争いに端を発する桂川原の戦いで、自身を擁立した細川高国が細川晴元・三好元長軍に敗れたため、朽木稙綱を頼って朽木に逃れた。善晴が滞在するために築..
享禄元年(1528年)、12代将軍・足利義晴が幕府内勢力争いに端を発する桂川原の戦いで、自身を擁立した細川高国が細川晴元・三好元長軍に敗れたため、朽木稙綱を頼って朽木に逃れた。善晴が滞在するために築かれた岩神館(いわがみやかた)には、館建立時に細川高国が義晴に贈った庭園が附属していた。 天文20年(1551年)2月10日から翌年1月23日の間、13代将軍・足利義藤が父同様に幕府の内乱を避けて朽木元綱を頼り岩神館に滞在した。義藤は三好氏に政権を奪われた天文22年(1553年)1月13日からの5年間も朽木に滞在し、途中で義輝と改名した。永禄元年(1558年)3月13日、義輝は三好政権打倒のため挙兵して京へと向かった。 江戸時代はじめ、岩神館の跡地に朽木元綱の子・朽木宣綱およびその妻・京極氏(秀吉側室松丸の妹)によって、周林院の名で創建された。庭園も秀隣寺の境内となった。 江戸時代中期に現在地へ移転したが庭園は残され、跡地に移った興聖寺の境内となった。 境内にある普門閣(高島郡八十八ヶ所第27番札所)という堂は、もともと岩神村にあった臨済宗妙心寺派・妙心寺直末の普門寺という寺院で、のちに秀隣寺に合併されたものである。
朽木野尻(くつきのじり)にある曹洞宗の寺院。
萬松山(ばんしょうざん)
曹洞宗
興聖寺末寺
萬松山秀隣禅寺