つるがみねはちまんじんじゃ
宮城県黒川郡大和町宮床字赤坂73
当社は寛文3年(1663)年の火災により古縁起等を焼失したため、創祀年代は明らかとなっていません。「奥羽観跡聞老志」や「封内名蹟志」には、この神社は推古天皇6年(598)年に一(市)宮波神と加茂三社..
当社は寛文3年(1663)年の火災により古縁起等を焼失したため、創祀年代は明らかとなっていません。「奥羽観跡聞老志」や「封内名蹟志」には、この神社は推古天皇6年(598)年に一(市)宮波神と加茂三社が合祭されたものであると記されています。また、別当(神宮寺の長)正善院清範は、この加茂明神社は式内須伎神社であると伝えています。宝永元(1704)年8月、宮床伊達家出身の仙台藩第五代藩主伊達吉村公が社参した折、「一ノ宮」は鹽竈神社と紛らわしいということで「宮中(みやなか)」という社号に改められました。また吉村公は社領に三貫文を、別当領に五百文を寄進したと伝えられています。享保15年(1730)年、吉村公が社殿を新造した際にこれを本体としたため、宇和田手城主鴇田国種の建てた諏訪社や稲荷、愛宕、白山社は末社とされました。第二代忠宗公、第四代吉村公らの仙台藩主、また領主田手氏の参詣能納物、社殿の修造や祭事の興行が絶えず行われ、現在でも勝負事の神、農耕守護、地域の安寧を祈願する社として信仰を集めています。※頂いた由緒書より
通称・宮中八幡(みやなかはちまん)
応神天皇・神功皇后・玉依姫
旧9月1日
あり