うけもちじんじゃだいこうじじしょうかく
青森県平川市大光寺四滝本
由緒 当社は大同年中 (八〇六~八一〇)、坂上田村麿の創建に係ると云い伝えられているが、詳らかではない。古昔は瀧本熊野権現宮千手観音堂と言われていたが、明治四年、神仏混淆禁止の為、保食神社と改称し..
由緒 当社は大同年中 (八〇六~八一〇)、坂上田村麿の創建に係ると云い伝えられているが、詳らかではない。古昔は瀧本熊野権現宮千手観音堂と言われていたが、明治四年、神仏混淆禁止の為、保食神社と改称した。承久元年 (一二一九)、曽我時廣が大光寺城に拠り、一族郎党をその付近に土着させ城内にある熊野宮を補修し領田若干の寄進をした。天正三年 (一五七五)、瀧本重行城主の時、津軽為信に攻められ落城後は代々の城主厚く崇敬し領田の寄進を始め祭儀を厳修した。慶長十四年 (一六〇九)、大光寺廃城以来四十年余り堂社の破損著く村民これを嘆き、承応年中 (一六五二~一六五五)、旧跡地瀧本に堂社を造営し、其の後大光寺組十七村の氏神となる。明治四年、津軽藩神社調べに依れば、当神社は大光寺村、本町村の産土の社とありて、其の後、本町村、小和森村に産土神社が建立、昭和二十七年、大光寺部落の氏神となる。明治六年境内地を成し、昭和二十一年三月、宗教法人令により宗教法人となる。
宇氣母智神
津軽三十三観音霊場第30番札所
例祭日 七月十七日