【境内ご由緒書きより】
人皇83代、土御門天皇の御頃、正治2年(1200)3月15日、*斉院次官(従五位の下)大膳大夫、中原親能の四男、摂津守師員が、ときの将軍、源頼朝から肥後国合志郡(現在の菊池郡)の地頭職を命ぜられ、二子村(合志町)に下向して、近江国比叡山(滋賀県大津市坂本)から「日吉山王社」を勧請して守護神としたのが始まりである。
「日吉山王社」とは、古来より山王権現、又は、山王21社と呼ばれ、朝廷の尊崇が厚く、特に、室町中期に、太田道灌が、日吉神社を江戸城内に勧請して、大江戸の守護神としたことによって、全国にその名が高く、現在は「日吉大社」と称されている。この山王社は、21神が祀られ、これを三区分して、上七社、中七社、下七社とよぶ。合志郡(現菊池郡)においては「上七社」を住吉むら(泗水町住吉)に、「中七社」を竹迫村(合志町豊岡)に、そして「下七社」がこの津久礼日吉神社である。
この神社は、もと、この南方約500メートル地点の「日吉神社旧址」の地に勧請されていたが、延宝の始め(1673~1680)たび重なる水難、天災のため、村を挙げて現在地に移り住み、併せて、神社も現在地に遷宮されたものである。