さわむらじんじゃ
福島県いわき市平下神谷岸前210
江戸時代初期の慶安年間(一六五〇)の頃、磐城地方は大干ばつに襲われ、幾十日も 一滴の雨も降らず、田畑はひび割れ一粒の稲も実らなかった。 時の平城主内藤忠興公は、家臣澤村勘兵衛勝為に管内の田畑干ば..
江戸時代初期の慶安年間(一六五〇)の頃、磐城地方は大干ばつに襲われ、幾十日も 一滴の雨も降らず、田畑はひび割れ一粒の稲も実らなかった。 時の平城主内藤忠興公は、家臣澤村勘兵衛勝為に管内の田畑干ばつ状況の検分を命じ た。勝為は、大野郷より回村の折、泉崎村の光明寺に住職歓順法師を訪れ、旱害に苦し む農民の救助策を談合し、歓順法師の示唆を受け、江筋開削の決意を固め、城主内藤公 に進言し、エ事奉行を拝命、小川村開場の夏井川から引水開削の事業を起した。 幾多の難工事の末、三十二年の月日を費やし、大小の水門十七ケ所、延長三〇キロメー トルにおよぶ水路を完成し、水田千二百ヘクタールを灌すに至った。 小川江筋の完成で小川から四倉に至る村々は、水不足から解消され、多くの米が収穫 されるようになり、農民の生活は豊かになった。 然るに、勘兵衛勝為の功を妬む者の讒訴によって、明暦元年(一六五五)七月十四日 に割腹し、四十三才をもって果てた。 しかし、勘兵衛勝為の功により、水利に恵まれた小川江筋下二千有余の住民は、明治 九年(一八七六)草野下神谷に澤村神社を建てて、永くその霊を祀った。 現在は、いわき市民の飲料水としても、市の上水道に毎日三万六千トンの清流を供給 している。
澤村勘兵衛勝為
明治九年(1876)十二月の創祀
いわき四倉ICから約16分
有り