光治山玉惇寺は別名を三宝院とも言います。外部家五代目当主陳外郎宇野大和守藤右衛門定治が日蓮宗に掃依し外郎家の菩提寺として現在の早川口付近に一寺を建立し、身延山から第十三世日傳上人を招いて開山住職と致しました。時に大永二壬午年(一五二二〉でした。日傳上人は当山に来られるにあたって、身延山守護の七面大明神の一木二体(一本の木から二体の仏像をこしらえた)のお像の一つを背負われておいでになり、お祀りされました。以後玉傳寺は身延の別院とされ、本山身延に対しても諸役免除の特別待遇をうけた別格の寺です。
当時は数万坪の敷地をもって沢山の伽藍があったと伝えられています。北条氏の滅亡した後には地震によって崩壊したり一部津波に洗われる等のこともありましたが、七面大明神の御像は無事に今日まで伝えられております。江戸時代に入り、寛永一四(一六三七)年、外郎家第八代外郎藤右衛門光治の時、小田原藩主、稲葉英濃守正則公より藩の練兵場をつくる必要のため、山角町の山手の北条時代米倉のあった土地の寄進をうけ、移転致しました。当時は末寺七ヶ寺あったといい、明治維新まで三ヶ寺を有しておりました。
当寺の日蓮上人の御像は中山法華経寺開山、日常上人の作られたものです。日常上人は下総国の領主富木胤継という人で、出家して日蓮上人の弟子となり、聖人の身近に仕えた方です。このため明治時代文部省が国定教科書を作るとき、この像が生の日蓮上人のお姿を最もよく写しているものとして、この像を教科書に載せました。
なお玉傳寺に鬼子母神がお祀りしてございますが、日蓮上人の小松原法難の際、鬼子母神が示現されたので、日蓮宗で大事な厄除けの神様としてお配りするようになったのです。(玉伝寺資料より)
✳︎猫の足あと様のHPを引用。