かさまじんじゃ
石川県白山市笠間町1-1
本社は延喜式内の笠間神社にして、遠く崇神天皇の御代より鎮座ましまし、大宮比咩神を祀る、和銅3年すでに奉幣のことあり、即ち笠間神社圭田47束2字田所祭住吉大神也、和銅3年庚戍4月奉圭田加礼有神家巫戸等..
本社は延喜式内の笠間神社にして、遠く崇神天皇の御代より鎮座ましまし、大宮比咩神を祀る、和銅3年すでに奉幣のことあり、即ち笠間神社圭田47束2字田所祭住吉大神也、和銅3年庚戍4月奉圭田加礼有神家巫戸等とあり、古は社家社僧多数住し、舘屋敷、三郎屋敷、源右衛門屋敷、坊子薮、大門大御堂経塚と称する遺名の存する如く、社地広大にして、氏子又数百戸あり、正三位笠間明神と称え、笠間郷(笠間村、北島村、宮保村、黒瀬村、石立村、松本村、小川村)一村の総社にして、大社として信仰者多く、近郷稀にみる名社なり。一時宮保八幡と称せしは、其の社地現宮保八幡神社と接続せし故なり、即ち、中古笠間神社神主東保、西保の二保に分れ後民家も東西に分離してより、現笠間村は旧西の保、現宮保村は旧東の保にして、宮保に八幡田と云う字あり、是に依りて宮保の保の云うべきを略して宮保村と云う。その八幡と称するは義仲の故事により当社を源氏の氏神なりと称せるより起りしものならん。斯くて現宮保八幡神社は明治7年8月笠間神社へ附属し、同年8月笠間神社の摂社となる。其昔寿永2年木曽義仲加賀合戦に、平軍を追撃し此地に来る。時恰かも手取川洪水のため、渡るを得ず、当社に減水と戦勝を祈願せらるるに、その願空しからず、俄に減水して渡る事を得たり。依つて兜及び喜悦書を奉ると云う。当時義仲附近住民より寄せたる煎粉に依り空腹を満たせりと伝え、又其時用いし水の井戸を義仲弓堀の井と称へ社頭に伝う。依って氏子一同今に至るまで11月15日をきし煎粉祭、別に義仲祭とも称し、神前に煎粉を供え奉りて、氏子も共に食して御神徳を称え奉る特殊の祭典執行せらる。明治5年の土申11月加賀国第一区郷社に列せられ、明治30年9月16日県社に加列、同39年12月29日神饌幣帛供進神社に指定せらる。
大宮売神 住吉三前大神 八幡大神 少彦名大神
旧県社 延喜式内社