正恩寺は、浄土真宗大谷派東本願寺の末寺です。初めは、尾張国海東郡富田庄(現在名古屋市中川区)に創建され、後に三河国額田郡土呂に移されました。当時、三河国二股城主だった大久保七郎右衛門忠世の長子、忠隣の妻、妙賢院が日頃から当寺の住職信賢に帰依していたため、忠世が小田原城主となった後、文禄2年(1593)に当地に移し、妙賢院を中興開基としています。このため、正恩寺は「尾三相州転遷の道場」と呼ばれています。
この門は、木造・入母屋造瓦葺の楼門で、上層には、寛延3年(1750)に鋳造された梵鐘(直径2尺3寸、高さ3.5尺)がありましたが、昭和18年に供出されたままとなっています。
この鐘楼門は、正面に掲げられた「法性山」という山号を記した扁額の裏に、「寛政五年丑九月二十一日、大工牧岡藤左衛門・西田平七・松野作右衛門」と記されていることから、寛政5年(1793)に、3人の小田原の大工によって建てられたことがわかります。
建物は、7.6寸角・高さ15尺(4.5m)の欅材の通柱4本で造られ、柱はそれぞれ、上層に行くに従い内側に傾き、全体に貫とほぞにより組み立てれらています。
屋根と下層正面の開扉は後年の改修が見られますが、全体は当初の姿がよく残り、鐘楼門としては、関東地方南部で稀少なものです。