はちまんじんじゃ
岐阜県郡上市美並町山田1646番地の1
当社は平安時代中頃の書物「美濃国神明帳」に記されている郡上七座の内の一座、 杭本明神である。髄本の地名は杭本明神の「くいもと」が転じたものであると考えられる。 活承年間(1177~80)に出雲国か..
当社は平安時代中頃の書物「美濃国神明帳」に記されている郡上七座の内の一座、 杭本明神である。髄本の地名は杭本明神の「くいもと」が転じたものであると考えられる。 活承年間(1177~80)に出雲国から相生村へきた福手兵部少輔は、村内に八幡宮 を奉祀した。その後、西原村へ転居した際、八幡宮を当地の中若山に遷座し、更に杭本 明神の神殿へ遷座して八幡神社と称するようになった。こうした由堵ある古社の為、維新前まで領主より高一斗一合を寄付されていた。当社には十四枚の棟札が残っており、 最古のものは安永元年(1772)である。八幡神社が杭本明神につながる古社で有ろから、その別当寺が有ったと考えられる。赤池の田中家流の「美濃一鏡系図」によれば、「門福手村、岩伊山蓮生寺、沙門妙道法師」と有る。系図に書かれた位置がら戦国時代に、現在の門福手集会所付近に別当寺が有ったと考えられる。この場所には、鎌倉時代頃に建てられたと思われる宝篋印塔や五輪塔が祀られており、ここに寺があったというかな伝承もある。 (美並村史より) また島居は、昭和五0年頃迄は長良川の河原のすぐ脇に有ったことから、当社は「川に後事する人々(筏流し、鉱道等に後事する人々)の安全祈願として、祀られていたのではないだろうか」と言う説も有る。
福手兵部少輔生國は出雲の国其の時大乱世にて処々の武士度々戦ひ故に治承二年福手氏産れ國立ち退き代々の氏神八幡宮を供奉して当郡相先村内もと祖手村に城を築き暫く居住し、養和元年当郡西乙原村花庵の城に移り其の時下屋敷を各地に建て然して当社を安...
応神天皇(おうじんてんのう)
4月初旬の土曜日