かつて田町河岸(現在の田町3丁目付近)には海苔漁師達の守護神(海苔弁天)として田町厳島神社が祀ら れ、別当は法榮寺であった。明治期、旧暦正月11日の例祭日になると、朝、お年寄りが法榮寺に御神体の弁天様を迎えに行き、リヤカーに乗せて町内を一巡後、厳島神社に安置してお祭りを行った。田町河岸の水面 には笹竹を立て注連縄を張って御神酒が捧げられ、夕刻まで飲食をして楽んだという。祭りが終わると再び 法栄寺まで御神体をお送りして翌年の正月まで預けた。忙しい冬場の漁期、仕事を休んでの楽しいひと時であった。田町厳島神社は、昭和48年(1973)4月に川崎漁業協同組合が解散したことから、神社護持の後継者が 途絶えるのを恐れた有志によって昭和61年(1986)若宮八幡宮内に遷座された。法榮寺裏、多摩川の堤防に立つとやや下流に中洲状の「ねずみ島」と呼ばれる小さな島が見える。大正7年 (1918)に着手された多摩川河口の改修工事以前は、殿町の土地はこの島のあたりまでひろがっていた。法榮寺の本堂は現在の堤防あたりにあり、墓地も水神社の裏手から多摩川に向かって真っ直ぐに伸びていた。内 務省の多摩川治水河川改修計画は、殿町地域20万坪のうち10万坪を政府が買い上げて河川幅を拡げるという もので、蛇行する流路を直流させ、付近の住家移転、梨・桃畑の果樹の移植を行い、大出水時の流水の障害物 を除き被害を防ぐ大計画であった。大洪水に苦しみ念願の堤防改修が実現するものの、先祖伝来の土地の半分を失う殿町の住民たちは、時の 内務大臣で大師出身の鈴木喜三郎に殿町側だけでなく羽田側への拡幅を陳情したが、多摩川河川改修は日本 国家百年の大計に基くものであると喜三郎は陳情を受け入れなかった。ただ、当初計画では現在の水神社・法 榮寺前の道路まで開削される計画だったものが、現在の堤防の位置までと変更されたという。そして梨の成木が1本1円、土地も1坪1円で買い上げられた。最後まで買い上げに応じなかった殿町の地主の梨畑を残し周 囲が2~3mの深さに掘られた。海潮が浸透し農作物が栽培出来なくなると放置され、やがて一面にアシが茂 り、野ネズミのすみかとなったのが「ねずみ島」の由縁である。