にしはちまんぐう
山口県美祢市於福町下八八七番地
由来 江戸時代の安永五年(一七七六)に作成された社伝によると、於福庄は平安時代以来、石清水八幡宮の社領であった。そのため、承平元年(九三一)、現在の馬場の下「浜の宮」に社殿を創建し、郷土の護り神様..
由来 江戸時代の安永五年(一七七六)に作成された社伝によると、於福庄は平安時代以来、石清水八幡宮の社領であった。そのため、承平元年(九三一)、現在の馬場の下「浜の宮」に社殿を創建し、郷土の護り神様として、山城国(京都)男山八幡宮(石清水八幡宮)のご分霊を勧請し奉祀した。初代大宮司は中原佐渡太夫勝時が奉仕したが、寛仁三年(一〇一九)に、落雷の為に社殿その他を焼失した。そこで現在の地に移建されたが、その時からの建築様式が現在も受け継がれている。特筆すべきことは、春秋二回、七日間の例大祭が執り行われ、その期間農具の大市が開かれることである。このことを人呼んで「長門美祢の太乃宮農具大市」と云っている。また藩政時代、領主志道家代々は崇敬の念が厚く、領主は例祭には必ず自ら参拝し、幣帛料一貫文を献供し御社領として一石八斗を上納された。神社においては、領内の風鎮祭・降雨止雨祭、虫除けの諸祈祷などを執行した。また領主寄進の龍や鯱の彫刻などは、精巧な細工がほどこされ、大きな板に彫刻された随神様と共に、美術的な価値の高いものである。境内社としてご鎮座の猿田彦神銅像は、もともと萩の春日神社に祀ってあったが、江戸時代の天保四年(一八三三)に領主志道家が毛利公に所望されて、この地に遷祀された。この時以来、毎年角力が奉納されている(旧郷社)。
JR美祢線於福 徒歩21分