当社の位置する赤羽の地は、縄文・弥生時代より人々 が生活を営んで居た古い洪積台地とよばれるおよそ三万 年前に形成された地盤に集落をおいており、古くは「赤 道の里」と呼ばれていまーた、当社の創建は詳らかでは 有りませんが、平氏が三河の国主とーて、この地方の花 園支配の実権をにぎった頃、吉良荘赤道の里にも若一王 子を勧請したではないでーょうか、赤羽古城の城主は伊 勢平氏の一門平遠衡(鷲尾遠衡)でした。
旧本殿は、一間社流造、板葺き、室町時代風の造りを 残す社殿で祭神神像の台座裏側に『元徳二年午三月吉日』 とする墨書が発見され、鎌倉時代の元徳二年(1330) まで創立が溯ると想われます。江戸初期中期後期と修復 を加えられ県内の流造本殿の特徴をよく備えています。
本殿内より発見された棟札は『元和九年癸亥卯月、1623)御宝殿建立大檀那高橋長門守』をはじめ明治時 氏まで七枚あります。 昭和五十八年本殿横の厨子より 十一面観音像が発見され爾来未社社殿に安置し、若一観 音と名付け有志で観音講として月例祭を営んで来まーた が、熊野本宮大社九鬼大宮司の御見解により主神若一王子の御神像は十一面観音像と判明致しましたので、この度の造営により本殿に御遷座されることと成りました。
本殿幣殿拝殿総ての新築造営は四百年ぶりの大事業 で平成十年村民相諮リ総意に応え再建造営に踏み切りま ーた、氏子・関係各位の熱誠溢れる尊い浄財の御寄進を 得て、平成十四年竣工の運びとなりました。
遷座祭奉祝大祭が厳粛かつ盛大に斎行でさま!たこと は氏子崇敬者の赤誠と関係諸氏の御支援の賜と深く感謝 の誠を捧げ、御神徳の御加護のもと、郷思氏子の永久の 繁栄と隆盛を祈念致し、御由緒を碑に刻み後世に遺すも のです。
現地案内板による。