真武根陣屋は嘉永3年(1850年)に築かれた請西藩の陣屋で、近世の木更津湊から約2㎞南東に入った標高約50mの台地上に築かれました。請西藩の陣屋はもとは1.5km北西の貝渕にありましたが、林忠旭(ただあきら)が藩主のときに間舟台に移し、「真武根陣屋」と呼ばれました。安政元(1854)年、忠旭は弟の忠交(ただかた)に家督を譲りましたが、忠交は慶応3(1867)年に没したため、忠旭の子、忠崇(ただたか)が藩主となりました。ちなみに忠交は慶応2年正月、伏見寺田屋に泊まった坂本龍馬を捕縛すべく指揮を執った人物です。風雲急を告げる幕末の慶応3 年(1867 年)請西藩主となった林忠崇は、戊辰戦争の折、藩主でありながら自ら脱藩し、陣屋に火を放ち、旧幕府遊撃隊の要請に応じ出陣しました。文武両道で優れた人物であったといいます。出陣後、各地を転戦しますが、最後は仙台藩の説得に応じ降伏。請西藩の領地は没収され、藩は消滅し、陣屋も廃されました。その後、長寿を全うした忠崇は、昭和16年(1941年)まで生き、「最後の大名」の異名をとりました。