真里谷城は、東京湾に注ぐ小櫃川の支流である武田川の上流部に位置する丘陵に築かれました。真里谷城は山間部に位置しますが、城下には市原に通じる街道も通り、そこから小櫃川の水運を利用すれば、久留里、亀山方面へと通じ、さらに木更津方面に出れば江戸湾の水運も利用できる交通の要衝地です。享徳の乱に際し、古河公方足利成氏によって房総半島に送り込まれた武田氏が上総に進出するための重要な足がかりとして築いた山城です。甲斐の守護、武田信満の子で成氏の近臣だった武田信長は房総半島に勢力を持っていた関東管領上杉氏に対するため「足利成氏朝臣旗」を手に、里見義実とともに房総半島に入部しました。上総武田氏はまたたく間に上総を制し、長南城(長南町)を本拠に各地に城を取り立て勢力を拡大していきました。その中で、長南城と並んで中心的な城だったのが真里谷城です。真里谷城の武田氏は「真里谷武田氏」とも呼ばれ、中心的な一族として発展していきました。天文6年(1537年)、真里谷武田氏の中で争いが起き、峰上城主の武田信隆が真里谷城の信応に対抗しました。これが里見義尭と北条氏を巻き込んだお家騒動となり、これを機に武田氏の勢力が弱まっていき、房総半島は里見氏対北条氏の対立という時代に動いていくことになります。