万喜城は夷隅川中流域の丘陵を利用して築かれ、城山を取り巻くように蛇行して流れる夷隅川を天然の水堀としています。城郭を築くのに最適な丘陵地に占地し、千葉県内でも有数の規模を誇っています。万喜城は上総土岐氏の居城として有名ですが、土岐氏が入る以前に長南武田氏が居城としていたことが西麓の上行寺の過去帳からわかっています。南北朝以降、関東管領上杉氏の支配下にあった房総半島に、鎌倉公方が送り込んだのが武田氏や里見氏です。その武田氏の衰退とともに土岐氏が万喜城周辺に進出していったと思われます。土岐氏は夷隅川沿いにたくさんの支城を築き水運を利用し、勢力を伸ばし、万喜城を拡張整備していったのでしょう。城下町も形成され、主郭東側の裾野から夷隅川までの間の平坦部が城下の中心にあたります。土岐氏当主の屋敷や家臣の屋敷などが置かれたと考えられていて、「内宿」という地名や船着き場の跡と思われる場所が今も残ります。当初は里見方だった土岐氏ですが、第二次国府台合戦(1564年)で里見氏が小田原北条氏に負けると、北条氏に属します。そのため、たびたび里見氏や正木氏に攻められました。万喜城の西方、数百mの距離にある権現城は、天正3年(1575年)に小田喜城(現在の大多喜城)の正木憲時が築いた万喜城を攻めるための陣城です。この陣城を含め、万喜城は房総の歴史を語る上でとても貴重な城といえます。天正18 年(1590年)に北条氏が滅びると土岐氏も同じ運命をたどりました。そして、徳川家康の関東入部に伴い、本多忠勝が万喜城に入城。その後、忠勝はまもなく大多喜城に移ったため、万喜城は廃城となりました。