大野城は夷隅川中流域の丘陵先端部に築かれ、北は夷隅川、東は大野川、西と南は谷津に囲まれた天然の要害です。隣接する光福寺が上総狩野氏ゆかりの寺院であることからも、大野城は15世紀には狩野氏の居城だったとされています。狩野氏は伊豆国狩野荘(伊豆市)を発祥とする一族です。伊豆国守護であり、南北朝時代以降、上総国を支配下に置いていた上杉氏との関係から狩野氏も上総国に入ったと考えられています。鎌倉公方が房総半島に送り込んだ武田氏、里見氏らに対抗するためと推察できます。しかし、発掘調査によると、大野城は狩野氏がいた時代より後の16 世紀後半まで使用されていたことがわかっています。大野地域は小田喜城(現在の大多喜城)の正木氏と万喜城の土岐氏に挟まれていて、そのどちらかの勢力が大野城を支城としていたと思われます。戦国時代末期には、この地域は小田喜正木氏の勢力下にあったと思われ、小田喜城の支城として使われていたと考えられます。現在、八幡神社が鎮座する場所は、「要害」とよばれ、主郭とされる区画の鬼門に当たり、往時の居館の姿が偲ばれます。大野城は大規模な破城の跡が調査で検出されていて、天正18 年(1590 年)に徳川家康の関東入部に伴い、上総国に入ってきた本多忠勝が万喜城から大多喜城に移るときに破城されたものと考えられています。