おおくにぬしじんじゃ
秋田県仙北市西木町西明寺堂村92-1
創建時代は記録及び口伝が無く不詳である。ただ阿弥陀堂略縁起によれば亀山天皇の弘長2年、最明寺入道時頼が真言密教布教と世情視察のため、諸国行脚に出たがその出国後、時頼の愛妾唐糸姫が家臣達に囚われ、これ..
創建時代は記録及び口伝が無く不詳である。ただ阿弥陀堂略縁起によれば亀山天皇の弘長2年、最明寺入道時頼が真言密教布教と世情視察のため、諸国行脚に出たがその出国後、時頼の愛妾唐糸姫が家臣達に囚われ、これを逃れて海に入り死を選んだが、その死体が津軽の外ヶ浜藤原崎に漂着した。恰も時頼が廻国の途すがらこれと出遭い石沢の辺りに葬ったという。旅を続けた時頼が当村の古刹に足を留めたのが唐糸姫の死体と会ってから37日目に当っていたので、その古刹から程近い薬師堂で追善供養を営み、且つ寺号を真言宗・光明寺と定めたとのことである。その後村人はこの事蹟に因んで光明寺を最明寺と改め、村名も西明寺としたと伝えられている。薬師堂は、はじめ薬師十二仏だったが元亀年間に阿弥陀・薬師・観音の三仏に変り以来薬師堂を三七日山阿弥陀堂としたとある。更に明和7年堂宇移転再建のとき観音像が勢至像にかわり、阿弥陀如来・薬師如来・勢至菩薩の三像が現在に至る。 堂宇内には更に木喰上人作と伝えられる木造大黒天一躯があり、明治7年祀官岡部常磐が阿弥陀堂を大国主神社と改称し、大国主命を祀る。猶古刹・最明寺は明治初年廃寺となり、今はその跡かたもない
なし