しらはたらいでんじんじゃ
埼玉県久喜市上清久668
言い伝えによればその昔、行基菩薩がこの地に自作の十一面観音像を祀ったのが始まりとされる神仏習合の神社と言われる。その後、八幡太郎源義家が、奥州征伐の途中戦勝を祈願し、奥州を平定した義家は、戦勝のお礼..
言い伝えによればその昔、行基菩薩がこの地に自作の十一面観音像を祀ったのが始まりとされる神仏習合の神社と言われる。その後、八幡太郎源義家が、奥州征伐の途中戦勝を祈願し、奥州を平定した義家は、戦勝のお礼に源氏の白幡を奉納したという。 雨乞、雷除、虫封じ、子孫繁栄の祈祷神社として知られ「光明電王宮・白幡権現社」と称し、地元近隣はもとより、遠方の人々からも大いに信仰された。明治初年の神仏分離令により、雷電神社と隣の常徳院に分離された。義家白旗奉納伝説や地名が白幡であることから、地元近隣の人々から白幡さま、白幡神社と呼ばれた。(十一面観音像は常徳院に祀られている) 昭和二十年代頃までは、寺社の三方は田んぼと沼(白幡沼)に囲まれ、神社は小高い台地の杜の中に鎮座していた。周囲は開発され今は昔日の面影はない。