こまがたじんじゃ
埼玉県比企郡小川町原川74
『当地は、兜川上流の山間地にある。古くは玉川領に属したというが、正保から元禄年間(1644~1704)にかけて、竹沢村が六村に分かれた際に原川村として独立した。 これより先、天正十八年(1590..
『当地は、兜川上流の山間地にある。古くは玉川領に属したというが、正保から元禄年間(1644~1704)にかけて、竹沢村が六村に分かれた際に原川村として独立した。 これより先、天正十八年(1590)の松山城陥落の際、落武者の一部は大河原村(現東秩父村)に逃れたといわれており、城主上田安独斎朝直の墓も同村内の浄蓮寺に現存する。同寺の過去帳によると、松山城にいた三人の家老の一人、原川丹波守が落ち延びて隠れ住んだのが当地であったという。このころ当社も創建されたと伝わるが、「明細帳」には慶長四年(1599)に再建とあることから、当初は恐らく小さな祠であったのだろう。その後、次第に村民の信仰を集め、当村独立の際に村の鎮守として位置づけられたと思われる。境内にある「たもと石」と呼ばれる高さ五○センチメートルほどの円柱状の石は、丹波守が松山城から落ち延びた時に袂に入れて持ち出したものといわれ、例祭には注連縄を張って祭典を行っている。 参道北側の斜面一角に平地があり、地蔵尊、法印墓石等が建つことから、かつての別当があったことが推察される。丹波守の後裔に当たる原川健家で現在祀られている雌雄の木彫りの馬は、この当時の神体であり、神仏分離により原川家に預けられた。左甚五郎の作と伝え、夜毎作物を食い荒らすので、古くは鎖に繋がれていたという』 (「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)
境内碑 當社の創建は詳らかならざれと慶長年間に社殿を造営し幾度かの改築を為し今日に至るが老朽甚だしく氏子が相謀り奉賛金及び境内木の一部を賣却しその資金を以って改築せるもの也 昭和四十七年十二月十日 氏子