しとりじんじゃ
鳥取県倉吉市志津208
創立年代は不詳であるが、当社は延喜式神名帳(西暦九二七年 平安時代)記載の神社(式内社)であって、古くは志津大明神又は 三ノ宮志津大明神とも称した。 神階は高く、往古より武門武将の崇敬篤く、庶民の..
創立年代は不詳であるが、当社は延喜式神名帳(西暦九二七年 平安時代)記載の神社(式内社)であって、古くは志津大明神又は 三ノ宮志津大明神とも称した。 神階は高く、往古より武門武将の崇敬篤く、庶民の信仰また盛ん、 中世には国主山名氏、吉川氏、南條氏などに崇敬され、社殿の建立、 社領の寄進を受けたが、慶長年間、中村伯耆守により社領を没収 された。江戸時代に入っては藩主の尊信篤く社殿の建立・修復、 社領の寄進が行われ、池田家の祈願所として隆昌を極めた。 鎮座地の志津は社号の倭文と同じである。 倭文とはシヅオリのつまった形で、シヅは「日本古来の文様」、オリ は「織り」であると言われる。したがって、倭文は日本古来の織物を 意味し、読みはシヅオリがシヅリ・シドリに、さらにシヅへと転じたものであろう。(古くは清音) 往時この一帯は日本古来の織物、即ち倭織が盛んであったという。 このことからして当社は、この地に移り住んだシヅオリを業とする 技能集団、「倭文部」の一族が氏神として機織の祖神「武葉槌神」を お祀りしたのに起因することは明らかである。やがてその里がシツ(志津)となったものと考えられる。 又、經津主神(一説には武葉槌神とも)が中津国平定の詔勅によ り出雲へ進発の時、御陣営を堅められたのがこの地で、当社はその 神跡であると伝えている。当社より北二百米余の地に「神津井」と 称する井がある。往昔、諸神の軍営中飲料に当てられたとされる井で、今も祭事には神水として神前に供している。 往昔より祭礼の際、室町時代の軍神祭の様式に倣った神幸式が 行われたが、幾多の変遷を経て江戸時代の末期再興、大名行列の様式になり今日に至っている。 明治四年郷社に列し、大正二年近在の四社を合併、昭和十七年 県社に昇格、昭和三十年福富神社が分離、御祭神は六柱となる。
創立年代不詳。延喜式神名帳に記載があり、伯耆国六社のひとつ。古くは志津大明神、または三ノ宮志津大明神とも称した。
武葉槌神(たけはづちのかみ 機織織物の神) 經津主神(ふつぬしのかみ 武勇の神) 下照姫神(したてるひめのかみ 安産の神) 伊弉諾命 伊弉冊命 譽田別命
式内社 旧縣社
不詳
志津大明神
例祭日 四月二十九日(昭和の日)
駐車可能スペース有り