創立の時不詳であるが、建久四年(一一九四年)右大将源頼朝武州入間川に狩りせし路次当神社に奉斎せしより、鎌倉武士及び領主大久保佐渡守忠保等の崇敬極めて篤く、村民亦氏神と仰ぎ祭事を尽くした。
文化六年六月(一八一〇年)並に文久元年四月(一八六一年)社殿を造営し、更に明治四十五年四月社殿を新築した。
明治元年三月二十八日付太政官達により、第六天社を柄沢神社と改称した、明治六年十二月村社に列せられた。
大正十年三月三十一日神奈川県指令内教第九〇六号を以って太神宮を合併した。
昭和五十年八月十四日鐘楼堂不慮の火災に遭い焼失
昭和五十二年四月十五日鐘楼堂再建並に社殿屋根葺替完成
新編相模風土記第百十四村里部鎌倉郡三十六(抜粋)
柄沢村 江戸より行程十二里十町村岡郷に属す 中略 建久四年四月右大将源頼朝武州入間野に狩せし路次当所を経て武州関戸宿に到りし事重須曽我物語に見えたり「鎌倉殿見浅間腰離山三原狩倉共建久四年丑四月下旬出鎌倉打超気幸坂過柄沢飯田著武蔵国関戸宿」今も猶武州多摩郡木曾町辺へ通ぜしといふ鎌倉古道村内に係れり。蓋し此道なるべし。
検地は貞享元年(一六八四年)国領半兵衛重次改む。今領主大久保佐渡守忠保なり。古御料所。享保九年(一七二四年)当領主に賜ふ。中略 神明宮、第六天社
神奈川県神社庁HPより