はちまんじんじゃ
埼玉県深谷市武蔵野1862
御由緒 神社の西側を通る県道小前田・児玉線は、建久三年に源頼朝が鎌倉幕府を開いてから整備した鎌倉街道であると伝えられている。頼朝やそれに従った者たちの八幡信仰はよく知られているが、当社も鎌倉に向かっ..
御由緒 神社の西側を通る県道小前田・児玉線は、建久三年に源頼朝が鎌倉幕府を開いてから整備した鎌倉街道であると伝えられている。頼朝やそれに従った者たちの八幡信仰はよく知られているが、当社も鎌倉に向かった当地の武将が信仰していたことが窺える。 江戸時代には当社の北東に位置する浄土宗常光寺が別当で祭祀を司っていた。明治期に入り、政府からの神仏分離令、次いで神社合祀政策より明治四十一年、字東宿地の大荒神社と字正法寺の諏訪大神社を合祀し八幡大神社と社名を改めた。翌四十二年に字宮地の十二社大神社及びその境内末社を八幡大神社に合祀した。この折、字風原の足髙大神社も合祀する予定であったが、賛同が得られず中止となった。八幡大神社は合祀された十二社大神社への配慮から、大正四年に武蔵野神社に改めた。終戦後、氏子の強い要望により昭和二十八年に十二社神社の社名で分祀され、当社も八幡神社の旧称に復した。 なお、当社には首相を務めた犬養毅の揮毫による社号額と宮中三殿並三大祭典御圖が残されている。
八坂祭(やさかさい) 当社の八坂祭は氏子から天王様と呼ばれており、祭礼日には古くから暴れ神輿として近郷でも有名な神輿渡御が行なわれていたが、家を壊すなど目に余る行為が続いたことから、ついに昭和三十年ごろに中止された。しかし、その後氏子の間で神輿渡御を復活しようとの気運が高まり、平成元年に花園生誕百周年を記念して再興されている。神輿渡御の際、氏子区域境四ヶ所で四方祓を行なっている。(埼玉県神社庁HPより)
誉田別命