さかもとじょうあと
滋賀県大津市下阪本3-2
元亀二年(1571)比叡山焼き討ちの後、織田信長は明智光秀に対して信長は滋賀郡の支配を命じ、比叡山の監視と琵琶湖の制海権の獲得のためを主な目的として、交通の要衝であった坂本に城を築かせた。 琵琶湖..
元亀二年(1571)比叡山焼き討ちの後、織田信長は明智光秀に対して信長は滋賀郡の支配を命じ、比叡山の監視と琵琶湖の制海権の獲得のためを主な目的として、交通の要衝であった坂本に城を築かせた。 琵琶湖畔に面して築かれた水城で、三ノ丸までを備える規模の大きなものであった。本丸には大天守と小天守があったとされ、城から直接舟で琵琶湖に出ることができた。 光秀と親交のあった吉田兼見の、元亀三年(1572)12月24日付の日記によると、坂本城の天守の作事がかなり進捗していたようで、その壮大さに驚いている様子が窺い知れる。 また、ルイス・フロイスの日記によると『それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものに次ぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。』と記述されている。 天正十年(1582)の本能寺の変の後、光秀は山崎の合戦において敗死し、明智一族は坂本城において滅んだ。 その後は丹羽長秀、杉原家次が城主となり、賤ヶ岳の合戦においては羽柴方の軍事拠点として使用された。 最後の城主となった浅野長吉(長政)は天正十四年(1586)、秀吉の命により新たな居城として大津城を築城、坂本城はわずか14年余りで廃城となった。 石垣や建物などは大津城に使用されたという。 現在は殆どが住宅地や道路となり、地表に残る遺構は皆無に近いが、琵琶湖の水位が低い日には本丸の石垣の根石が姿を現すことがある。
JR比叡山坂本駅より徒歩25分。 但し、本丸跡は私有地のため立入禁止。
見学自由
無料
(坂本城址公園→本丸跡→明智塚→東南寺)約30分
坂本城址公園駐車場にあり。