あかごうはちまんぐう
山口県美祢市美東町赤3841
奈良時代、称徳天皇巳酉(769)のころ、現在御鎮座の山(長生山)の南面の大迫谷という所に、朝廷よりの勅命をうけ豊前国宇佐八幡宮より勧請し創建したのが赤郷八幡宮の起源である。当時は中西国の惣社とあがめ..
奈良時代、称徳天皇巳酉(769)のころ、現在御鎮座の山(長生山)の南面の大迫谷という所に、朝廷よりの勅命をうけ豊前国宇佐八幡宮より勧請し創建したのが赤郷八幡宮の起源である。当時は中西国の惣社とあがめられた。弘法大師が諸国巡行のおりに自刻の仏像を奉納したと伝えられ、現在安置されている二体の仏像がそれであると申し伝えられている。修理・造営については最初は朝廷より勅命があつたが、その後、源頼朝、梶原平藏景時、また、宇治川の先陣争いで有名であり長門の国の守護となった佐々木四朗高綱も幕府の命をうけ造営したこともあった。それより北条、足利、厚東、大内の各諸家の尊崇も厚くたびたび修理、造営がなされたが、戦国時代であったため兵火等により焼失・大破のこともしばしばであった。次の毛利氏の時代、元就、輝元両時代にも造営され特に輝元時代の慶長元年(1596)には広壮な社殿が造営されたが、寛永二年(1625)野火のために焼失し当分の間仮御殿であったが、時の領主毛利秀就はこの事を非常に憂慮し、寛永19年(1642)火の用心として当長生山の辰巳(東南)の方向の現在地に移し造営した。当時の棟札が現在保存されている。その後、延宝9年(1681)毛利綱広の時代、元文5年(1740)毛利宗広の時代とそれぞれ社殿を修築した。また、寛政12年(1800)毛利斉房の時代にも修築し、当時の上粱文「重修長州長生山廟記」が現在保存されている。文化8年九代宮司宮原和泉正信政の時代に式年祭を行い、その際「美祢惣本社八幡宮碑」を建立し、現在境内にある亀形の石台の上にたっているのがその碑であり神社の由来を記している。その後、明治26年(1893)に修築し現在に至っている。源頼朝、足利、大内および毛利元就、輝元、秀就の御判物が数多くあり、当時の神官宮原大藏丞信盛の時代まで所持していたが、寛永二年の火難のために焼失した。尚、当社の神官は往古より宮原家が代々つとめていたが、天文20年(1551)宮原丹後信正が深川大寧寺において大内氏と共に戦死し一家離散したが、その後、宮原大藏太夫信直が毛利氏広島在城のおりに家続御免を願い出で以後再び神官としてつとめ現在に至っている。
応神天皇、仲哀天皇、神功皇后
梵鐘