当社は人皇十二代景行天皇二十五年(755)七月武内宿禰の東国観察の時勧請したと伝えられている。
延享年間(1744ー1748)記された社伝には「武内宿北陸東方諸国の地形を定る時相模の国は東の堺たるに由りて東夷守護のため東林山に此神を祭る。世に愛甲神社と号す云々」とあり、千有余年続く古社である。
また天正三年(1575)古棟札を写したものに「檀那相州住森庄林之郷井上之苗裔長野市之蒸在原業秀敬白、大工下野天明住人椎名縫蒸縫宗作之寄進」天正三乙亥二月吉日と記されてあり、この年をもって再建立したとされる。
天正一九年(1591)十一月には、前年関東に入府した、徳川家康より御朱印状とともに社領一石五斗を拝領し以後朱印領として幕末まで続いた。
名称も元は愛甲神社、その後、鹿島、三嶋、住吉、三柱大明神と称し、三社神宮大神玉柱姫命も合祀する。
明治六年七月維新の政令により、村社隣、村社林神社と改称し、現在に至っている。