うきしまべんてんしゃ
神奈川県厚木市上依知2664-4
相模川の流れの中にあった浮島は、大水の際水害の原因となっていたので、明治初年に木が伐られ、土地は河水に侵食された。元荻野山中藩士族松下祐信の指導により作業は行われ、祐信の手記にその様子もある。また、..
相模川の流れの中にあった浮島は、大水の際水害の原因となっていたので、明治初年に木が伐られ、土地は河水に侵食された。元荻野山中藩士族松下祐信の指導により作業は行われ、祐信の手記にその様子もある。また、工事の朝、空は晴れ渡っていたが、工事が進むとともに大嵐となったそうな。 里人は浮島にあった弁天の祟りを恐れたが、島の崩壊の際、弁天は崩れ流れて、対岸磯部の岸に着いた。もとより、磯部の仏像院の持の弁天だったので、そちらでこぞって祠は迎えられた。しかし、こちら側上依知では、その後の不思議があったという。 工事頭が雨中島田姿の女があちらこちらと彷徨うのを見、近付くとその影は松の根方に消えたという。それで驚き皆に話すと、船頭の一人が、金色の簪の女が、上半身を振り、下半身をのたうちつかせながら浮島の方から泳ぎ、上依知に上がったのを見たという。それで、上依知側にも弁天祠を祀ることと決まった。
浮島弁天社の創建年代等は不詳ながら、かつては相模川に中洲があり、その中洲(浮島)に鎮座していたといいます。この浮島が相模川の氾濫を招いているとして、明治初年、旧荻野山中藩士松下裕信が浮島を取り除くことを発案、浮島を取り除いた後に、浮島...