しょうでんじ
山形県鶴岡市播磨己 43―44
はりまなる しかまにとほき はてまでも のりをおもへば ちかよりぞゆく
創立:延徳三(1491)年 開山:審巌正察禅師(延徳三年二月二十五日寂) 開基:示現十六世用室椿大和尚 堂宇:本..
創立:延徳三(1491)年 開山:審巌正察禅師(延徳三年二月二十五日寂) 開基:示現十六世用室椿大和尚 堂宇:本堂 庫裡 開山堂衆寮 天王堂 楼門 総門 その他 本尊:聖観世音菩薩(鎌倉時代胎内仏) 寺宝:印度仏(縁起付) 最上義光公黒印 本寺:村上耕雲寺 末寺:高禅寺 地蔵院 妙心寺
開山の祖である審巌正察禅師は越後の国村上の耕雲寺第七世であり、師は仙台市輪王寺より村上に転任した。仙台輪王寺を出てこの地に来て、真言宗で別の所に寺があったのを改宗したものである。 禅師ははじめて現在地に堂塔伽藍を建立し、当寺において六十八才で示寂した。 ときまさに戦国乱戦の世で最上義光は武藤家を高館に破り、尾浦城をのっとる。 武藤家の臣砂田家一族がこの地に落ちのび播暦と称したがこの地域一帯は「どんじ」と呼称されていた。 天正年間播磨の国飾磨の城主赤松則村が足利氏と争ったがみじめな敗戦に終わったので、赤松の家臣兵庫之守、図書之守などが羽黒を頼って奥羽に落ちて来た。 また故郷をしのんで播磨と改め八幡大菩薩を祀り、鶴岡をはじめ西は湯野浜まで侵した。 兵庫、図書の両者が仲間割れし図書が一時地頭になったが、領民との間に不和が生じ、図書もまた没落するなど血生ぐさい下剋上の時代を過ごして、その後羽黒から天台宗宝蔵院と、当寺ともども現在の播磨に居をかまえることになり、この地を開墾してようやく生活も安定することができたという。 上杉、最上、酒井と三世を乗り切つてきた。 特に最上義光の帰依深く寺領安堵の黒印を賜わった。酒井藩時代には総穏寺を総緑所として里五ケ寺の筆頭となり、天神堂、善阿弥、湯ノ沢、文下長崎面野山、林崎その他一カ所に君臨してきた。 庄内札所の御詠歌に「播磨なる飾磨(しかま)に遠き果てまでも法を思えば徒歩(かち)よりぞ行く」と唱われてある。 当寺のご本尊は聖観世音菩薩で、一名身ごもり観音ともいわれており、おおむぬ鎌倉時代のものと思われるが優美な霊佛である。 また、往年の名力士として万天下をわかせた大関大達羽左工門の墓がある。
光国山
曹洞宗
延徳三(1491)年
聖観世音菩薩
勝伝寺
庄内三十三観音霊場 第23番札所