だいろくてんぐう
東京都八王子市片倉町1632-5
創立年代は明らかでないが平安時代に比叡山、西塔の僧 武蔵坊外愛の血縁であった弁智が法華経を奉納した関東七社の中の一社であると伝えられていた。天正十八年(一五九〇)六月 豊臣、北條の戦にあい焼失したが..
創立年代は明らかでないが平安時代に比叡山、西塔の僧 武蔵坊外愛の血縁であった弁智が法華経を奉納した関東七社の中の一社であると伝えられていた。天正十八年(一五九〇)六月 豊臣、北條の戦にあい焼失したが、慶長十八年(一六一三)願主、木曽村(現町田市) 覚円坊の僧類長権大僧都と大旦那伊蘇九郎左衛門により再建され、以来明治維新まで中山村の常宝院が別当となった。 江戸時代の白山神社は中山村の鎮守社として、社地一町歩を保有しホ、領主勝田家は敬神の念厚く、元文三年(一七三八)正月神鏡を奉納し、更に十一代将軍家斉の将に際して豊城を祈願し和歌一首を詠進している。 文改九年(一八二六)春、社殿の塚より法華経十巻が発見され、その経巻の奥書に大歳甲成、仁平四年(一一五四)九月時許松武蔵国西郡船木田御庄内 長隆寺西谷書字了勧進僧井智血縁者僧忠導とあり、村人の伝承が裏付けられたばかりでなく考古学資料として評価されている。 明治初年神仏分離令により常宝院から離れ、同六年十二月由木村々社となり、同四十二年、覆殿、殿を新築、昭和三年拝殿を改築し面目を一新した。 昭和二十年十二月国家神道の廃止により、宗教法人として発足し昭和五十年今上陸下即位五十周年にあたり、社殿並びに参道・鳥居を含む大改修を行い現在に至っている。 尚、前期経巻の他、明治・大正・昭和の三代に亘り出土した経筒・鏡・爽は東京都文化財重室(考古学資料)として、八王子市資料館及び国立博物館に保管されている。
片倉大六天宮の創建年代等は不詳ながら、新編武蔵風土記稿に「小名釜貫(村の南の方なり)にあり、小祠なり」とあります。