あしがくぼしらひげじんじゃ
埼玉県秩父郡横瀬町芦ケ久保202−3
芦ヶ久保の地名は、『風土記稿』によれば、正丸峠の下の窪地に芦などが 多く茂っていたことに由来する。開村の年代は明らかではないが、 最も早くから芦ヶ久保に居住していたのは、森下耕地の村越家であろう..
芦ヶ久保の地名は、『風土記稿』によれば、正丸峠の下の窪地に芦などが 多く茂っていたことに由来する。開村の年代は明らかではないが、 最も早くから芦ヶ久保に居住していたのは、森下耕地の村越家であろうといわれている。 同家は、幕政期には名主を務めており・・。(中略) 口碑によれば、当社は、この村越家が一族の氏神として勧請した社であると伝えられ、 古くは村越家とその同族によって祭祀が行われていたという。 ところが、明治に入り、芦ヶ久保村の村社を制定するに際して、村内には当社をおいて 村社とすべき神社がなかったところから、村は同家に譲渡を要請し、同家もこれに 応じたことによって、当社は芦ヶ久保村の鎮守として祀られるようになった。 祭神は、白髪武廣国稚日本根子天皇(しらがたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)で 一間社流造りの本殿には厨子に入った像が納められている。
白髪武廣国稚日本根子天皇(しらがたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと) 猿田彦神(さるたひこ
明和8年作とされる白髪明神像
一間社流造
8月16日