しょうげんじ
兵庫県尼崎市塚口本町1-12-26
尼崎地方の一向一揆は、塚口御坊が中心であったとしるされています。 この御坊は、応永16年(1409)に性曇上人が建てたと伝えています。 性曇上人が尼崎に来たとき病気になり、Ⅰヵ月余り滞在しました..
尼崎地方の一向一揆は、塚口御坊が中心であったとしるされています。 この御坊は、応永16年(1409)に性曇上人が建てたと伝えています。 性曇上人が尼崎に来たとき病気になり、Ⅰヵ月余り滞在しました。 このとき入門した祐信が発起人となって、上人の許しをえて堂舎を建てたのが塚口御坊となりました。 そののち、細川勝元と山名持豊とが応仁2年(1468)に争ったとき、広根(川西市)の最徳寺、多田(川西市)の光遍寺、箕輪(豊中市)の超光寺の3ヵ寺が川辺郡・豊島郡・能勢郡の末寺や道場などで組織した一揆の中心になっていたことを物語っています。 塚口御坊が方2町(約200m四方)余の境内のまわりに土居(土塁)を巡らし、さらに堀を巡らして戦国時代の城の構えを備えていました。 そのために塚口城ともいわれています。 ここが城として用いられたのは織田信長と荒木村重との戦いのときです。 塚口御坊の壊滅後は、正玄寺がその跡を引き継いでいます。 尼崎市教育委員会
園融山
真宗
興正派
応永16年(1409)
性曇上人
塚口御坊・塚口城跡・興正寺塚口別院
阪急神戸線塚口駅から徒歩約3分