おおくらひかわじんじゃ
東京都世田谷区大蔵6丁目2−3
(大蔵村)氷川社 除地、一段五畝、小名本村にあり、石階二十五級を登りて坂の上下に鳥居を立、一は石にて柱間八尺、一は木にして両柱の間六尺、上屋二間四方、西南の方を向り、内に僅なる祠を置、神体は束幣に..
(大蔵村)氷川社 除地、一段五畝、小名本村にあり、石階二十五級を登りて坂の上下に鳥居を立、一は石にて柱間八尺、一は木にして両柱の間六尺、上屋二間四方、西南の方を向り、内に僅なる祠を置、神体は束幣にして木の立像長二尺五寸許、永安寺の持、當社に古き棟札あり、左にのす。(棟札図省略)(新編武蔵風土記稿より)
氷川神社(大蔵町60番地) 祭神、大己責命、素盞嗚尊等五座 大蔵町の鎮守、喜多見町、宇奈根町のそれと共に三所明神の一つである。 御神体は束幣姿で80cm程の木彫立像である。金身黒色で玉眼が施してある。社殿は石段十数段の丘上にあり、木立探くいかにも村の鎮守にふさわしい宮のたたずまいである。「江戸名所図会」には「祭礼毎年九月廿一日なり、相伝ふ暦仁元年当地の主江戸氏足立郡大宮の御神を勧請すと云。旧は唯一宗源の社なりしに其後二百有余年を経て天文年間松井坊といへる山伏奉祀の宮となり両部習合す(中路)当社昔は五所に並び建て宮居魏々たりしにいつの頃より歟荒亡して唯比一社のみ残れりと云」とある。これによってみればこの社は七百余年前の遠き昔の建立であり、幾多の変還を経て今日に至っていることが察せられるのである。 拝殿には嘉永5年(1582)の年号を記した天の岩戸の奉納額、年号は不明であるが氷川祭礼の図、宇治川先障の図等の大額が掲げてある。又棟札が数枚あり、文政三年(1820)の棟札には 上棟 武蔵国多摩郡菅刈庄臣掠村鎮守氷山神社 里正石居市郎右帯門平晴保 と記してある。(せたがや社寺と史跡より)
暦仁元年(1238)に江戸氏が埼玉県大宮市の氷川神社を勧請したものと伝えられる。もと大蔵町の永安寺が別当であった。永禄八年(1565)の棟札には「武蔵国荏原郡石井土郷大蔵村氷川大明神第四ノ宮」と記されていた。 明暦二年(1656)に再建され、文政(1818〜30)の初めにも本殿および拝殿が再建された。(世田谷区教育委員会掲示より)
素戔嗚尊/須佐之男命(すさのお)
暦仁元年(1238年)
一間社流造、杮葺(文政七年(1824)に再建)