しょうちゅうざんおくのいん
千葉県市川市若宮2-21-1
鎌倉時代の中頃、下総国の守護千葉頼胤に仕えた富木常忍は、八幡庄若宮と呼ばれたこの地に館を構え、幕府のある鎌倉との間を往復しました。そこで、たまたま布教に懸命だった日蓮と出会い、熱心な信者となったの..
鎌倉時代の中頃、下総国の守護千葉頼胤に仕えた富木常忍は、八幡庄若宮と呼ばれたこの地に館を構え、幕府のある鎌倉との間を往復しました。そこで、たまたま布教に懸命だった日蓮と出会い、熱心な信者となったのです。 そうしたところから、文応元年(一二六〇)日蓮は、鎌倉の松葉ヶ谷で焼討ちにあったとき、この常忍を頼って若宮に難を逃れました。この時、常忍は館の中に法華堂を建て、日蓮を迎えて説法を願いました。さらに日蓮は、文永元年(一二六四)安房の小松原で東条景信に襲われた後も、若宮に身を寄せました。この若宮法華堂で開かれた日蓮の説法は、実に百回に及んだといわれます。この地が日蓮の「初転法輪の旧跡」とされるのは、この理由からです。このことで中山の大田乗明、曽谷の曽谷教信など、日蓮の信者になった人々は多く、また日蓮にまつわる数多くの伝承も残されています。 弘安五年(一二八二)日蓮の入滅後、常忍は出家して日常と号し、法華堂を改めて法華寺と称しました。この法華寺は後に中山の本妙寺と合体して法華経寺となり、日常を第一世とし、法華寺は奥之院と称されるようになりました。 今でも土が高く盛られ、大樹の繁っている部分は、往時の館を取り囲む土塁の一部で、この館の跡を「若宮館跡」と呼んでいます。
平成十三年三月 (境内・市川市教育委員会案内板より)
奥之院
日蓮宗
法華経寺奥之院
1260年(文応元年)
日蓮
富木常忍
市川七福神(弁財天)
京成本線東中山駅から徒歩で約13分