ひじじょう
大分県速見郡日出町2610−1
関ヶ原の戦いでの功績により、豊後国日出3万石に封じられた日出藩初代藩主・木下延俊(のぶとし)は、慶長6年(1601年)、入国後ただちに築城に取りかかり、翌年の慶長7年(1602年)8月には大方の普請..
関ヶ原の戦いでの功績により、豊後国日出3万石に封じられた日出藩初代藩主・木下延俊(のぶとし)は、慶長6年(1601年)、入国後ただちに築城に取りかかり、翌年の慶長7年(1602年)8月には大方の普請ができ入城しました。 城の縄張り(設計)は義兄・細川忠興(延俊の正室・加賀の兄で、細川ガラシャの夫、後の豊前小倉藩・初代藩主)が行い、石垣の構築は家臣で築城の名手・穴生理右衛門(あのうりえもん)が野面積みで築き、木材は鹿鳴越の木材を用いたといわれます。 別名「暘谷城(ようこくじょう)」と呼ばれ、これは、3代藩主・木下俊長が中国古書『淮南子(えなんじ)』の一節「日は暘谷(ようこく)より出でて咸池(かんち)に浴す(日出於暘谷 浴于咸池)」より引用し命名したものといわれています。 本丸には三層の天守閣をはじめ、二層の櫓が5ヵ所、平櫓が築かれ、これを中心に二の丸・三の丸・外郭と三重の構えを備え、外部には武家屋敷や民家を取り入れました。 明治7年(1874年)、大分県は城内建物を競売に付し、取り壊しましたが、その1つ隅櫓(鬼門櫓)は他の場所へ移築されたのち、平成25年(2013年)、現在の場所に復元されました。
JR暘谷駅より徒歩5分
二の丸館の駐車場(無料)
有り