大洲藩主加藤貞泰が、元和三年(一六一七)大津おおつ入封と同時に三の丸に建立した寺院。
この寺は、もともと貞泰が美濃国黒野に父光泰(戒名曹渓院)の菩提のために建立した指月山曹渓院であり、伯耆国米子転封に伴い、米子に移していたもの。
現在の光泰の霊廟は、文政5(1822)年に造営されたもので、龍護山曹渓院にあります。
歴代藩主の墓碑の中で、唯一家の形をした厨子や朱色に塗られた覆屋が他の藩主の墓所にはない特徴です。
これは、大洲藩が光泰を他の藩主と区別化し、特別な存在として位置付けようとしたものと考えられています。